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障害者と健常者。可哀想な者同士で補い、支え合う関係に。

  • 2014年09月04日

夏の甲子園優勝校の中村選手が書いたという作文が話題になっている。

http://kando.raindrop.jp/18097

この作文を読んで思ったことを以下に。

健常者が障害者の「ために」何かをするのは差別的だからよくない。
「ために」ではなく「共に」だという意見があるが、私はどうもしっくりこない。


同様に健常者が障害者を「可哀想」と思うのは、健常者が障害者を見下しているからよくないという考え方もあるが
それも違うな、と思う。

そこには(健常者が障害者のために役に立てることはあるが)「障害者は健常者のために役立てない」
あるいは(可哀想なのは常に障害者であって)「健常者は障害者から可哀想と思われるようなことはない」という考え方が横たわっているように感じるから。

私が森や街で子どもたちに伝えたいことは二つある。

一つは「大きい、速い、強い」ことは誇っていい。
でもそれは自分のためだけに使ったり、「小さい、遅い、弱い」人を蹴散らし踏み躙るために使うものではなく。
それらは自分のプライドであると同時に、「小さい、遅い、弱い」人を命がけで守るために神様が授けて下さった能力や立場なんだ、てこと。

もう一つは「小さい、遅い、弱い」人だけがいつも劣っていて可哀想なのではない。
「大きい、速い、強い」からこそ劣っていることがある。
「大きい、速い、強い」からこそ得られないものがあり、見失っているものがあり、
出来ないことが一杯ある。

お互いが相手にとって可哀想な存在なのだから、恥じることなくお互いに堂々と可哀想と思い合えばいい、

そしてお互い相手の可哀想な部分を補い、支え合えばいい。てこと。

例えば、地震で電源を消失した深夜のビルで全盲の社員が晴眼者の社員をオフィスから誘導し、無事避難させたという話がある。
健常者には決して見えない色を見、聞こえない音を聞き、それを作品として提供してくれる障害者がいる。

生まれた時から寝たきりで何の反応も出来ないけれど、「ただ、今、ここで、生きていてくれる」それだけで家族に希望と勇気を与え続けている障害児がいる。


中村選手が書いた作文は障害者となった友への熱い思いが溢れててこっちまで熱くなる。
けれども障害者差別を気にする余り言葉狩りが横行し、表面的には差別がなくなったように見えて実は
健常者が持つ障害者にに対する一方的な優越感は解消されていない例の一つだと、私は思った。
彼は自分に与えられた能力を誇っていいし、障害ある友人を可哀想と思っていいのだ。
そして同時に自分もまたその友人から可哀想と思われる劣った部分を持っていること、
それを障害者である友人に補い支えてもらわなければ生きていけないことに気付いてほしいのだ。

健常者なんて障害者に憐れまれ、補ってもらい、支えてもらわなければ、まともに一人で歩くことも出来ない。
それが世間の当たり前の感覚になって欲しいと願っている。

(ゴリ鈴木)

子どもたちの可能性と未来

  • 2012年11月01日
森で子どもたちが野遊びに没頭している。
そのことにどんな教育的意義があるのですか?と
皮肉混じりに訊かれることがあります。
そのたびに私は、
「次の9つの項目をクリアできたら、子どもたちが創造的で自律的で社会的な大人になれる可能性は飛躍的に高くなるのです」
と答えます。1.自然の中で
2.10歳までに
3.五感を駆使して
4.子どもたちが
5.子どもたちだけで
6.自分たちの今一番やりたいことを
7.自分たちのやり方で
8.納得いくまでやり切る。
9.そして、傍にこの過程を見守り援助する大人がいる。

Save Forest Xが提供している
森のようちえん
親子SATOYAMA遊び
森の学舎(街と森の科学教室)
ハイパー寺子屋
は、どれもこの考え方を基礎にしています。

Save Forest Xが見つめているのは
子どもたちの可能性と未来。
これまでもこれからも。

(g)

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